作並街道を歩く 【訪問日:2024年1月】
<カテゴリ:自然、文化・遺産>
作並街道は宮城県の仙台市と山形県山形市を結ぶ国道48号線のことです。このうち山形県側を関山街道、宮城県側を作並街道と呼ばれています。仙台市と山形市を結ぶ道路としては他に笹谷街道(国道286号線)、二口街道等がありますが、作並街道はこの中でも唯一冬季の期間、閉鎖されない道路です。以前は馬も通れないような急な坂道であったため、笹谷街道、二口街道と比較してあまり使われなかったようですが、その後、関山トンネルが開通したことにより、仙台と山形を結ぶ主要街道となり、人と馬車が行きかうようになりました。
このように作並街道は古くから東西を結ぶ貴重な道として使われてきました。そして宮城県側には、作並宿、熊ヶ根宿、愛子宿の3つの宿場町が設けられていました。また県境には、それぞれ坂下境目番所(山形県側)、作並宿御番所跡(宮城県側)が設けられ、通行する人や物資の警備にあてられていました。
今回、宮城県側の最西端の作並御番所跡から最東端の愛子宿まで歩く機会がありましたので、ご紹介させて頂きたいと思います。距離にして約15kmの歩きです。途中、何か所も立ち寄ったので、寄り道をせずに歩くとどの程度時間がかかるかわかりませんが、スタート地点の作並御番所跡でマップを調べたところ、約4時間ということでした。沿線は旧街道沿いの宿場町跡だけではなく、橋や滝その他見所満載でした。このような見所満載の沿線を一度にはご紹介しきれないため、主に作並宿、熊ヶ根宿、愛子宿の宿場町跡や古くからあるお城などの史跡はこのページで、それ以外の沿線のお勧めスポットは「仙山線各駅停車」でご紹介させて頂いています。合わせてご参照頂ければ幸いです。
ただ少しだけお断りする必要があります。作並街道沿いの作並宿、熊ヶ根宿、愛子宿は、日本に残っている有名な宿場町とは違い、今ではかつての面影が全くなく、標柱が立てられているだけです。従い、本ページをご欄になっても面白いものでもなんでもありません。それよりも是非、皆さんもぶらりと旧宿場町をめぐる旅に出かけてみることをお勧めしたいと思います。旧宿場跡の標柱を探すだけでも楽しいものです。加えて沿線は、滝あり橋ありと見応え満載です。
なおもし作並街道を歩かれる機会があれば、実際に歩いてみた経験より、2つのコツをご紹介したいと思います。
①出来るだけ古道を歩いてみる
作並街道(作並~愛子間)のほとんどが国道48号線沿いを歩くことになりますが、いたるところに古道と思われる道が分かれては合流するという箇所が何か所もあります。国道48号線はそれなりに通行量もあるので、是非、そのような分岐点に遭遇すれば出来るだけ古道を歩いてみることをお勧めします。ひょっとして、それらの旧道のみを案内したサイトがあるかもしれませんが見つけられませんでした。なおもちろん古道を歩いてもいずれは国道に合流することをマップなどで確認した上での話になります。
②西から東へ向かう(作並宿跡⇒熊ヶ根宿跡⇒愛子宿跡)。
作並宿跡あたりは奥羽山脈に近いこともあり、かなりの標高です。東から西へ向かうと結構な上り道となってしまいます。どうせ歩くなら少しでも楽に歩いた方がいいと思います。作並宿跡からスタートして、熊ヶ根宿跡、愛子跡に向かうと下りのため楽な道のりとなります。
※なお訪問当日、作並⇒熊ヶ根⇒愛子の順番で訪れたのですが、周辺の見所が多く、事前の調査が不足していたため、熊ヶ根宿跡、愛子宿跡のいくつかは訪れる時間がありませんでした。是非、「作並街道を歩く第2弾」としてご紹介させて頂きたいと思います。
【作並宿周辺】
国道48号線沿いの作並温泉入口近くにある「作並宿」というバス停あたりが壇ノ原と呼ばれている集落で、江戸時代にはこのあたりは15軒ほどの農業を中心とした宿場町を形成していました。写真の右手にある小さな建物が「作並宿」のバス停で、左手が作並温泉を経由して山形へ通じる国道48号線、右手が壇ノ原地区へ向かう古道です。そしてその古道を5分ほど歩いたところに作並御番所跡があります。以前はここで通行人や物資の取り締まりを行っていたようです。もちろん今ではかつての面影は全くなく、ポツンと標柱のみがあるだけでした。そしてその横には「熊出没注意」という標柱も建てられていました。今回の「作並街道を歩く」旅は、ここ作並御番所跡がスタート地点となります。
【熊ヶ根宿周辺】
熊ヶ根宿中心地
熊ヶ根宿の中心地は、現在のJR仙山線の「熊ヶ根」駅から東へ徒歩10分ほど向かったところにある熊野神社や興禅寺、野川橋を中心としたあたり一帯です。このあたりは戦国時代には熊ヶ根城が築かれていましたが、江戸時代になると作並街道と同じく農業を中心とした小さな宿場町として形成されてきました。安永風土記によると当時35軒人口230人ほどの小さな集落だったようです。このあたりは、結構、高い段丘上にあるので、すぐそばを流れる広瀬川から水を引きあげることはせずに、隣の作並から用水を引いていたようです。
なお熊ヶ根宿跡も今ではかつての面影はなく、標柱だけが寂しく建てられているだけでした。
熊ヶ根城跡
戦国時代に国分氏の家臣である六丁目氏により築城された。わずかに土塁を確認することができる。熊ヶ根駅から徒歩10分
熊野神社参道
人家の横をすり抜けるような小さな道が熊野神社への参道になっている。少し見落としがちにつきご注意。熊ヶ根駅から徒歩7分
熊野神社
このあたり周辺は熊ヶ根宿の中心地だったようで、熊ヶ根の地名の由来とも言われている。熊ヶ根駅から徒歩7分
熊ヶ根宿 関地区(関所神社)
仙山線熊ヶ根駅から西へ徒歩17分のところに熊ヶ根宿というバス停があります。このあたりは熊ヶ根地区の関集落と呼ばれていた地域でした。そして戦国時代には関所があったとされているところです。
実はそこに関所神社があると聞き、立ち寄ったのですが、その時の体験がご参考になるかと思い、少しご紹介させて頂きます。
関所神社は、熊ヶ根バス停近くにある和光院から旧道沿いに50mほど西に歩いたところが参道?になっています(参道といっても立派な鳥居があるわけではないので、ここでは「?」と書かせて頂いています)。そこから登るのですが、30mほど行くと全面に金網が張り巡らされており、それより先に行くことはできませんでした。
どこか金網の切れ目があるに違いないと思い辺り一帯を探しましたが、全面、金網が張り巡らされていたため、どうしてもそれより上に登ることができませんでした。金網はそれほど高くはなかったので(写真をご参照)、それを飛び越えて登ろうと思いましたが、ひょっとして金網は通行止めの意味なのか(もしくは民家に入りこむことになるのか)と思い神社への参拝を断念しました。金網のことなど、どこにも書いていなかったのになあと思いながらバス停に戻りかけたのですが、どうしても諦めきれずにいたところ、丁度、その時、地元の方と思しきご老人にお会いしたので聞いてみました。するとなんということはない「網の扉をはずして入ればいいよ」ということでした。そして再度、参道?に戻り、入口らしき箇所に縛り付けられているひもを丁寧にほどいてなんなく関所神社にたどり着くことができました。恐らくこの金網は、猪か鹿(熊も?)が降りてくるのを防ぐためのものと思われます。是非、皆さんも関所神社に行かれる機会があれば、金網に遭遇してもめげることなく、扉を開けてお参り頂きますようお願いします。もちろんお帰りの際はもとに戻すことをお忘れなきようお願いします。なお神社までの参道?は写真の通り結構な急登ですので、それなりの装備が必要です。
【愛子宿周辺】
愛子宿は仙山線の愛子駅近くの「愛子宿西口(延命地蔵尊)」から「愛子宿東口」までの作並街道沿い約700mの間に点在しています。この間には、かつて愛子宿にあったとされる3軒の茶屋や、検断屋敷といった街道沿いの遺跡に加えて、「愛子」の名前のいわれとされている「子愛(こやす)観音堂」、源頼朝が合戦の必勝祈願をしたとされている「諏訪神社」など見所満載です。
なおこれらの遺跡は地元の方により標柱が立てられていたり地図も整備されていたりと非常にわかりやすくなっています。旧街道関連の遺跡はかつての面影はありませんが、是非、皆さんも地元の方により整備された標柱探しに出かけてみませんか。
中野茶屋跡
記録によると愛子宿には宿泊、飲食が出来る茶屋が3軒あったとされている。そのうちの1つで飲食店として賑わっていたとされている。愛子駅から徒歩5分
肝入検断屋敷
江戸時代、肝入は現在の町長、検断は警察の仕事をしていたが、ここ愛子ではその双方の役を代々小松家が務めていた。愛子駅から徒歩3分
南館跡
江戸時代の下愛子風土記御用書出によると、国分氏の家臣である萱場丹後により築城されたとされているが年代等は不明である。愛子駅から徒歩13分
諏訪神社
源頼朝が平泉の藤原泰衡を征伐する際に必勝祈願をしたことから社殿を造営したのが始まりとされている。宮城県指定有形文化財に指定されている。愛子駅から徒歩12分
津島祇園
昔から災害や疫病からの守り神として崇められてきた。天保の飢饉ではこの地方の数多くの百姓が無くなったと記されている。1883年に愛知県津島祇園神社より分社された。愛子駅から徒歩3分。
子愛観音堂
江戸時代の安永風土記によると、非常に古くからあるものとされており、この周辺の地名である愛子の由来あると言われている。観音像は定燈(じょうちょう)作とされている。愛子駅から徒歩10分
愛子駅近辺
<参考情報>
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