蔵と鬼伝説が残る村田の街並みを歩く 

<カテゴリ:自然、文化・遺産>


蔵の街並み
蔵の街並み(2024年撮影)

 宮城県の県庁所在地である仙台市の南部に村田町という人口1万規模の比較的小さな町があります。古くから紅花を中心とした商都として栄え、今でも多くの蔵が残されており「宮城の小京都」としても知られた町です。平成26年に村田の街並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。私もこれまでに2回ほど訪れましたが、何時訪れても心休まる静かで美しい街並みが印象として残っており、大変にお気に入りの町です。そしてこの伝統ある村田の町は、鬼伝説が伝わる町でもあります。是非、皆さんにもこの美しい村田の町を訪れて頂きたいと思い、ご紹介させて頂きたいと思います。

蔵のある街並みを歩く
蔵のある街並みを歩く

蔵の町 村田を歩く

 村田の町の始まりは、伊達家の家臣であった小山九郎業朝(おやまくろうなりとも)が15世紀に合戦に敗れ、この地に村田城を築城してこの一帯を治めたこととされています。後に小山氏は村田姓を名乗るようになりました。その後、伊達正宗の七男である伊達宗高が村田伊達家として、この村田城を居城としました。江戸時代、村田商人は上方や江戸の商人と活発に取引を行い、特に紅花は代表的な商品として、山形と仙台を結ぶ紅花商都として栄えました。現在、村田の街並みに残された蔵の多くは、紅花により富を蓄積した商人によって明治時代以降に建てられたそうです。今でも当時の栄華を伝える街並みが残っており、その景観を楽しみながらゆっくりと街歩きをすると大変に心休まると思います。

旧大沼家住宅(ヤマショウ記念館)
旧大沼家住宅(ヤマショウ記念館)

 ちなみに蔵の町村田を代表する旧大沼家住宅(ヤマショウ記念館)では街の案内を行って頂けます。この大沼家は、紅花はもちろん、生糸、味噌醤油等の商いをした有数の豪商です。実はそこでの案内で初めて知ったのですが、紅花は山形県の河北地方の特産品と思っていましたが、宮城県の柴田郡内、岩沼、角田、亘理といった仙南地方でも盛んに栽培されていたとのことです。そして村田町の商人が取り扱っていたのは、この仙南地方で採れたいわゆる「南仙紅花」と呼ばれる品種でした。当時、紅花は着物の染料として欠かせない農産物でしたが、南仙紅花は大変良質であったため、18世紀末には京都の紅花市場で山形の紅花を上回る値がつくようになったようです(旧大沼家住宅のバンフレットより)。このようなことを知った上で、改めて蔵の街を散策するとまた違う景色が見えてきます。

 余談になりますが、旧大沼家住宅で聞いた話によると、このあたりは地盤が非常に脆弱であるため、東日本大震災の時はもちろん、令和3年と令和4年に発生した福島沖地震により甚大な被害を被ったとのことです。そういえば2011年の夏に最初に訪れた時は、まだ町中いたるところで蔵が崩れていました。その後、令和3年と令和4年に発生した福島沖地震で再度、蔵が崩れたようですが、令和6年(2024年)に訪れた時はすっかりきれいに整備されていました。

 

鬼伝説をたどる

 村田の町にはなんと数多くの鬼伝説が残されています。あくまでも伝説ですので、その真意は定かではありませんが、ミイラという実物、 姥ケ懐地方に伝わる慣習などに触れてみると、単なる「伝説」だけでもなさそうです。 

鬼のミイラ
鬼のミイラ(村田歴史みらい館内に設置)

<鬼のミイラ>

 村田の町並みの中心から徒歩10分のところに村田町歴史みらい館があります。ここは道の駅・村田に併設されており、縄文時代から現在に至るまでの町の変遷を窺い知ることができます。余談になりますが、オリンピックに4度出場して1964年に開催された東京オリンピックで金メダルを獲得した三宅義信さんはここ村田町出身のようで、三宅さんに関する展示コーナもありました。

 その村田町歴史みらい館の中になんと「鬼のミイラ」が展示されているのです。1994年に村田の商家の蔵から発見されたもので、江戸時代末期に作られたと考えられているようです。写真撮影可能ということで撮影したのが右の写真ですが、歯の形などは人間のものに近くとてもリアルではありますが、どこか鬼の面のようにも見えました。本当に鬼のミイラでしょうか。一説によると鬼に対する畏怖の象徴として人工的に作られたものとも言われているようです。

村田歴史みらい館
村田歴史みらい館
道の駅むらた
道の駅むらた

姥ケ懐民話の里
姥ケ懐民話の里

<渡辺綱伝説>

 村田町歴史みらい館の「鬼のミイラ」の横に、この地に伝わる渡辺綱の伝承についての解説が書かれていました。要約すると以下の通りです。

「昔、京都の朱雀大路の羅生門に鬼がいて、人々を苦しめていました。そこで渡辺綱(嵯峨源氏・金融の子孫)が鬼の腕を切ったのですが、その後、鬼は命からがら逃げました。そしてその渡辺綱は鬼を追って諸国を探し求めついに辿り着いたのが村田町のはずれにある姥ケ懐(うばがふところ)という地でした。鬼は渡辺綱が追ってきたことを知り、片腕を取り返したいと思い、渡辺綱の伯母に化け、鬼の腕を見たいと言ってだまし、まんまと腕を取り返すことに成功しました。そして鬼は囲炉裏の自在鈎を登って屋根の煙だしから逃げました」  

というものです。なお渡辺綱と展示されている鬼のミイラとの繋がりは不明でした。

民話の里伝承館
民話の里伝承館

 それ以来、地域の人々は鬼を逃がした渡辺綱の気持ちを思い、囲炉裏の自在鈎と煙出しをつけなくなったようです。さらに節分の豆まきの時でも「鬼は外」と言わないようになったようです。

 村田の中心地から徒歩45分のところにある「姥ケ懐民話の里民話伝承館」で老婆の人形が渡辺の綱の物語を聞かせてくれます。ちなみにこの民話伝承館は江戸時代に建てられ、文化財にも指定されているものです。民話の里で鬼伝説を聞くのも味わい深いものがあります。

 余談ではありますが、先にご紹介したやましょう記念館で「姥ケ懐民話の里民話伝承館」までの道のりを訪ねた時、「普通は歩いていかないのですけどね」と笑いながら道を教えて頂きました。村田の中心から少し離れていますので歩きの場合はそれなりの覚悟が必要です。

 

鬼の手掛け石
鬼の手掛け石

<姥の手掛け石>

 渡辺綱伝説の続きです。屋根の煙出から家の外へ逃げ出した鬼は一気に川を渡ろうとしましたが、あまりに慌てていたため、体勢を崩してしまい転倒しかかります。思わず近くにあった石に手をついてしまうのですが、その時の手形が残っているというのです。そして鬼は石に左手をついたあと、そのまま川を飛び越えて逃げました。下の写真をご覧頂ければと思いますが、確かに手形はついているようですが、本当に鬼の手形でしょうか。まあこのあたりはあくまでも伝説として楽しむことにしましょう。

 なおこの鬼の手掛け石は姥神神社というところにあります。このあたりは案内板がほとんどないので、どこに鬼の手掛け石が設置されているのか、かなり迷ってしまい、ついには近くにあった民家に飛び込みで入り教わりました。民家から出てきた方も「確かにこのあたりは案内板が少ないですよね」と笑いながら親切に教えて頂きました。おくつろぎのところ大変にありがとうございました。

姥神
姥神(ここを入ったところに鬼の手掛け石がある)
鬼の手掛け石
鬼の手掛け石

 美しい蔵の街並みに加えて鬼伝説の残る村田の町に是非出かけてみませんか?なお村田の町には鉄道の駅がありません。JR最寄りの駅である東北本線の大河原駅からの路線バス、もしくは仙台と蔵王間を結ぶ高速バスがアプローチ手段となります。仙台と蔵王間を結ぶ高速バスの方が若干ではありますが、便数も多いようです。


<参考情報>