鼠ケ関と義経伝説 (訪問日:23年8月8日)

 <カテゴリ:文化・遺産>


古代鼠ケ関址
古代鼠ケ関址

  いわゆる奥州三古関と呼ばれている「勿来(なこそ)の関」、「鼠ケ関(ねずがせき)」、「白河の関(しらかわのせき)」を巡る第3弾として、鼠ケ関を訪問してきました。

 まずこの鼠ケ関を訪問するにあたり、最低限の事前調査を行いましたが、その結果、この地には古来より奥州に入るために設けられていた関所としての機能と、江戸時代に入り庄内藩酒井家が入植した際にほぼ同じ地に設けられた関所としての機能の2ケ所の関所があったことがわかりました。

近世念珠関址
近世念珠関址

 前者は発掘された遺跡などから概ね平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて存在していたようです。昭和47年に「古代鼠ケ関址および同関戸生産遺跡」として鶴岡市の指定史跡に選定されました。

 一方、後者は、同じ「ねずがせき」と呼びますが、江戸時代にこの地に入植した庄内藩主酒井氏が「念珠関」と呼ばれる関所を設けて人や荷物の往来を取り締まったようです。平成元年に「近世念珠関址」として同じく鶴岡市の指定史跡に選定されました。

 これだけの前提知識を持って2023年盛夏に現地を訪れました。

 

府屋駅
府屋駅(2023年撮影)

旅の起点は・・

 

 さて旅の起点は羽越本線の「鼠ケ関駅」と言いたいところですが、その1つ新潟寄りの「府屋駅」になります。というのは、前夜は新潟駅前のビジネスホテルに泊まり、東北地方でも数少なくなってきた特急列車である「いなほ」で出向いたのですが、特急列車は「鼠ケ関駅」に止まらずにその1つ手前の「府屋駅」しか止まらないためです。ここまでは想定範囲なのですが、そのあと普通列車に乗り換え「鼠ケ関」まで向かおうとしたのですが、なんと列車の接続が「府屋駅」ではなく、1つ先の「鼠ケ関駅」始発の普通列車しかないのです。特急列車が止まらないのは「あり」としても、わざわざそれを当てこするように接続する普通列車が次の駅から始発というのはどうかなと思います。恐らくですが府屋駅が新潟県、鼠ケ関駅が山形県に位置しており、そのあたりのJR東日本のテリトリによるものでしょうか。

鼠ケ関駅
鼠ケ関駅(2023年撮影)

 まだこのあたりまでは事前に時刻表の調査で判明していたのですが、そのあとが大変でした。府屋駅で1.5時間待ちになるので、さすがにそれは時間の無駄なので、府屋駅からタクシーを使い隣駅の鼠ケ関まで向かおうとしたのですが、全くタクシーが捕まらないのです。駅前にタクシー待ちはないのは覚悟していましたが、駅構内に広告されていたタクシー会社に電話したところ、方向が逆ということで断られてしまったのです。これも恐らくですが駅構内に広告されているタクシー会社は新潟県のタクシー会社なので、私が向かう逆方向の山形県側に行くのを避けられたようです。

 あれこれと考えるのも時間も無駄なので、鼠ケ関駅まで歩いていくことにしました。距離にして約5km、時間にして1時間程度なので許容範囲ではありましたが、当日は庄内地方37度超えの猛暑日であったため、往復10km 、時間にして約2時間、汗びっしょりになりながらの歩きとなりました。このあたりの列車の接続や駅前のタクシー事情については地元の関係者の改善をお願いしたいところです。

 

新潟県と山形県境
新潟県と山形県境 

古代鼠ケ関址を訪れる

 

 さて猛暑の中、国道7号線沿いを歩くこと約1時間、いよいよ新潟県を超えて山形県に入ります。ちなみにこの県境の地は、旅番組などで出演者がぴょんと飛び越えて県境を渡るシーンでよく出てくる箇所です。

 古代鼠ケ関址はこの県境近くにありました。ここ鼠ケ関址は日本書紀の記事の中でこのあたりに古代柵があったことは書かれているのですが、それがここ鼠ケ関の地なのかは定かではないようです。ただ十一世紀に詠われた能因の歌枕に「ねずみの関」とあり、十世紀頃にはすでに旅人に親しまれていたと書かれていました。その後も「保元物語」、「義経記」にも「鼠ケ関」が記述されています。さらに歌人松尾芭蕉による「おくのほそ道」の中でも「鼠の関」と記述されています。

  そして昭和43年に行われた発掘調査により、「古代鼠ケ関址および同関戸生産遺跡」が発見されました。昭和43年の発掘調査でも上記のことが確認されています。現地の説明板によると「10~12世紀頃のものとされる軍事警察的な防御施設としての千鳥走行型柵列跡・建物跡(関)と、それを維持するための製鉄・製塩・土器窯跡などが出土した」と書かれていました。すなわち警察的な目的とする関所としての機能と、それを支える高度な生産施設をもった集落によって「関」が成立していたようです。

 ただこの古代鼠ケ関址が、その後、近世念珠関址に移転された事情や時期は明らかにされていないようです。

 

近世念珠関址を訪れる

 

 さて古代鼠ケ関址からさらに北上して鼠ケ関駅前を通過すること約6分の地に「近世念珠関址」がありました。ここは江戸時代、「鼠ケ関番所」と呼ばれていて、庄内藩主として酒井氏が入植した1622年以降に整備されたと言われています。明治5年に廃止されましたが、大正13年頃、この関所が「史跡念珠関址」として内務省指定史跡に認定されました。その後、先にご紹介した「古代鼠ケ関址」の存在が明らかになったため、この地の史跡を「近世念珠関址」と称するようになったようです。

 そこに書かれていた説明板によると「番所の建物は三間(約6メートル)に七間平屋建、茅葺で屋内は三室に仕切られ、中央が取り調べ所、両側が役人の上番、下番の控え室であった。またこの番所は沖を通る船の監視や港に出入りする船の取り締まりもしていた。番所の建物は廃止跡、地主家の住居となり、後に二階を上げるなど改築されたが、階下は昔の面影をとどめている」とかなり具体的に書かれていました。少なくともこういった記述を見ると、これまで出向いた「白河の関」、「勿来の関」と比較して、この地に関所があったのだろうなと最も強く思わざるを得ませんでした。

 

義経上陸の碑
義経上陸の碑

そして義経伝説

 

 この鼠ケ関の地には、義経伝説がいくつか残されていました。1つが歌舞伎の「勧進帳」と同じようなシーンがこの鼠ケ関でも繰り広げられたというものです。ご存知の通り、勧進帳は源頼朝が源義経をとらえるために幾つかの関所を設け、その中で加賀国の安宅(あたか)の関所を通過する時の様子を歌舞伎にしたものです。山伏姿に変装した義経が関所を通りかかると、武蔵坊弁慶が義経を杖で何度もたたくことにより、本物の義経ではないと関守に思わせ、無事、関所を通過したという有名な話です。それと同じシーンがこの鼠ケ関でも行われたというものです。むしろこの地こそが勧進帳の舞台ではないかという説もあるようです

 そしてもう1つ残されている説が、義経一行は徒歩で県境を越えたのではなく、越後の馬下(現村上市)から船で海路をただり、ここ鼠ケ関(弁天島※下記ご参照)に上陸して難なくこの鼠ケ関を通過したというものです。義経伝説に魅せられてしまっている私にとっては、大変に興味深い内容でした。 

国道7号線より弁天島
国道7号線より弁天島を望む

 なぜこの地に2つの関所があったのか、これは奥州への出入り口として時代を経て偶然にこの山形と新潟の境に設けられたのか、非常に興味があるところです。また古代鼠ケ関址が、その後、近世念珠関址に移転された事情や時期は明らかにされていないとのこと、それは古代鼠ケ関址の延長として、近くの近世念珠関址に移転されたのか、今後の研究・調査が待たれるところです。少なくともこれまで訪れた奥州三古関の中では、現実にこの地に関所があったに違いないという思いを最も強くした次第です。

  そして37度を超える猛暑の中を再び1HRかけて府屋駅に戻りました。

 

 羽越本線の最寄りの駅である鼠ケ関の停車本数が少ないという問題はありますが、下記参考情報のお勧めスポットも含め、関所址などが比較的近くに集まっており、アクセスし易かったです。是非、皆さんにも訪れることをお勧めしたいと思います。


<参考情報>

是非、立ち寄りたい周辺のお勧めスポット(もちろん鉄道とバスと徒歩で)   

浄土ヶ浜

弁天島と鼠ケ関灯台(2023年撮影)

源義経が頼朝に追われ、馬下(現在の新潟県村上市)から船で県境を越え、上陸したと言われている。島には厳島神社がある。鼠ケ関駅から徒歩10分

念珠松庭園

念珠松庭園(2023年撮影)

1994年に造園家である中島健により作られた。元は約400年前、佐藤茂右エ門らにより作られた黒松が原型とされている。1955年に山形県の天然記念物に指定された。鼠ケ関駅から徒歩6分

 


鼠ヶ関