岩手に伝わる鬼伝説を辿る
<カテゴリ:自然、文化・遺産>
以前より東北地方、特に岩手県には鬼に纏わる伝説が多いと感じていました。鬼というと、桃太郎のおとぎ話にでてくる「鬼の退治」、節分の「鬼は外」に代表されるように、鬼=悪、鬼=怖いというイメージがある一方、秋田県男鹿地方に伝わる伝統行事である「なまはげ」では、鬼の仮面をつけた「なまはげ」が家々を廻り、厄祓いをしたり、怠け者を戒めたりしています。どちらが本当の姿なのでしょうか。今回は岩手県に伝わる鬼伝説を辿ってみた。
「鬼の館」で鬼について学ぶ
そもそも鬼とは一体何でしょうか。そのヒントが北上市にある鬼の館にありました。ちなみに北上市は市民憲章の冒頭に「あの高嶺 鬼すむ祭り・・」と唄われている通り、「鬼」を中心とした街づくりが進められています。この鬼の館は、旧和賀町が1988年に策定した「鬼と平和のまちづくり事業」の一環として1994年に鬼をテーマとした博物館として開館されました。なお旧和賀町はあとでご紹介する鬼剣舞発祥の地とされていましたが、御多分に洩れず平成の市町村合併により1991年に北上市に編入されました。
館内には日本のみならず世界に伝わる鬼の伝説や鬼に纏わるお祭り、鬼の仮面などが所狭しと展示されています。鬼伝説が日本の各地に残されている中で、やはり最も東北とつながりが深い話は、坂上田村麻呂による「蝦夷(えみし)」征伐のようです。ご存知の通り、蝦夷は奈良時代から平安時代にかけて東北地方に住んでいた人々のことを呼んでいますが、朝廷の命に従わなかったため、異端児扱いされていました。手を焼いた朝廷は坂上田村麻呂に命じて蝦夷を制覇したことは有名な話です。そしてその時の蝦夷の首長が鬼だったというものです。坂之上田村麻呂の話は史実だと思いますが、首長が鬼だったというのは伝説にすぎず、東北地方に住んでいた原住民に対する蔑称だったと言われています。ただこの坂上田村麻呂の征伐に関連して、東北地方に鬼伝説が多く残るというのは確かなようです(「達谷窟の悪路王」等。・・後述ご参照)。
一方、日本の地方によっては、むしろ鬼の善行に感謝する風習もあり、鬼が悪霊を追い出すものとして崇められてきました。
このように鬼は悪である、鬼は神の化身である、妖怪であるという話など、鬼の館ではいろいろな説明がされています。鬼とは一体何かについてはいろいろな学者が学説を唱えており、もちろん私は門外漢ではあります。ただ鬼の館を一通り廻って感じたのは、鬼は人間の人智を超えた力を持ったものであり、確かに古来より人々から恐れられていたものの、一方、怖い鬼の面を被り悪者を退治するものという二面性を持つ存在として崇められているということです。
ちなみに博物館の学芸員の方にもお話を聞きましたが、実は鬼のつく地名だけでいえば福島県がいちばん多いようです。このあたりは是非別途調べてみたいと思います。
なお余談ではありますが、現在、鬼の館へ向かう路線バスはありません。以前は近くの岩崎というところに停留所があり、北上駅から路線バスが通じていましたが、何時の時点から廃止されたようです。平日に北上駅からコミュニティバス「おに丸号」が通じているようですが、私のような会社勤めの人間にはそれを利用することもできず、例により地図を拡げて最寄りの駅を探してそこから徒歩で向かいました。今回は北上線の藤根駅が最寄りの駅のようです。そこから4.4km、徒歩で約1時間の道のりでした。
鬼剣舞
鬼剣舞は北上市周辺に古くから伝わる伝統芸能です。1993年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。元々は旧和賀町発祥と言われていますが、その起源は1300年以上前まで遡り、大宝年間に修験の祖・役の行者小角が天下泰平、五穀豊穣、万民繁栄を願って舞った「念仏踊」が始まりとされています(北上観光コンベンション協会資料より)。
この鬼剣舞は北上地方の夏の風物詩といえる「北上みちのく芸能まつり」を始めとして、上記ご紹介した鬼の館など市内のいたるところでいろいろな団体が演舞しているため、1年を通して見ることができます。
ちなみに余談になりますが、この北上みちのく芸能祭りは東北六大夏祭りに数えられることもあり(注:「鬼剣舞」ではなく、「さんさ踊り」が六大祭りの1つとしてカウントされる場合もあり)、鬼剣舞はもちろん主に岩手県を中心にしたいろいろなお祭り(花巻市の鹿踊り、釜石市の虎舞、早池峰神楽、盛岡市のさんさ踊り等)を一か所で短期間に見ることができるという贅沢なお祭りです。
さて鬼剣舞はいかめしい表情で相手を威嚇するような鬼のような面をつけて舞うことから「鬼剣舞」と呼ばれてはいますが、実はその面には角はありません。踊っているのは「鬼」ではなく、「仏」の化身だからと言われています(北上観光コンベンション協会資料より)。そして強く大地を踏みこむことという独特の足さばきは、仏が悪魔を踏み鎮めるという意味があるようです。このあたりは先に書いた「鬼が持つ二面性」のうち、「鬼=悪を退治する」代表かもしれません。鬼の面(仏の化身)を身につけ勇壮に踊るさまは見応え十分です。是非、一度、ご覧頂くことをお薦めしたいと思います。岩手県を中心とした夏祭りも合わせて一気にみたい場合は、北上みちのく芸能祭りがお勧めです。
三ツ石神社に伝わる鬼の手形とさんさ踊り
盛岡市に伝わる鬼伝説とさんさ踊りは、鬼が持つ二面性のうち、「鬼=悪」とされる代表的な例のようです。その昔、南部藩盛岡に鬼が現れ、町の人々を困られていました。そこで困りはててしまった町の人々は、盛岡市内にある三つ石神社の神様に鬼の退治のお祈りをしました。それを聞いた三つ石神社の神様は鬼を捕まえて、二度と悪いことはしないように境内にある大きな石に鬼の手形を押させたとのことです。鬼は退治され、町の人々は喜び、この三ツ石神社の周りを踊りました。これが盛岡の伝統的な夏祭りである「さんさ踊り」の始まりとされています。
三ツ石神社には今でも鬼の手形があるとされているようです。私も何度か出向きましたが、どこに手形があるのかよくわかりませんでした。ちなみにこの「岩」に「手形」、これが岩手の由来であるとも言われています。
なおさんさ踊りは私のお薦めの夏祭りです。日本一の和太鼓と圧倒的なスケールによる踊りはきっと皆さんの魂を揺さぶられるに違いありません。別ページにて紹介させて頂いていますのでご参照頂ければ幸いです
ちょっと変わった黒石寺の十王様
鬼をテーマとした中に十王様を取り上げるのは少し憚れます。ご存知の通り十王様は「地獄の刑罰の裁判官」と言われています。人が死んだあと、あの世とこの世を彷徨う中で生前の行いによりその刑罰が決まるとされており、その刑罰をくだすのが十王様というのです。嘘をついたら舌を抜かれるという閻魔大王様が代表的な例です。
日本の各地には怖い顔をした十王様が数多くいると言われている中、岩手県奥州市にある黒石寺の十王様は少し変わった顔をしていると聞き、出向きました。
黒石寺は729年開山の天台宗の名刹です。余談になりますが、ここ黒石寺は毎年正月に五穀豊穣、無病息災を祈って行われる蘇民祭が行われることで有名です。文化庁の「無形民俗文化財」にも指定されました。ただなんと檀家の高齢化、祭りの担い手不足により祭りの維持が困難ということで、「令和7年以降の蘇民祭は行わない」と発表されました。まさに私としても是非見学に行こうと思っていたので本当に残念です。なんとか復活ならないものか祈るばかりです。ただ本格的な超高齢化社会を迎える日本の各地でも同じようなことが起きるかもしれません。
これも余談になりますが、現在、黒石寺への路線バスはありません。実は30年以上前にこの近くにある正法寺に出向いたことがあるのですが、その時には黒石寺への路線バスは確かにありました。いつの時点からか廃止になったようです。止む得ません。東北本線の水沢駅から約9.4kmからの歩きです。右の写真は道中で見つけた「蘇民」の像です。よく蘇民祭り番組などで出きます。歩きならではの「発見」でした。
さて水沢駅から歩くこと約2時間15分、黒石寺に到着し、早速、十王様を見させて頂きました。なおご参考までに十王様を見学するには予約が必要です。私も事前に予約をしていたのでスムーズに案内して頂きました。なお当日は十王様が十体揃っていましたが、結構、何体かは他の博物館に貸し出しすることもあるようです。十体揃って見学することが出来てラッキーでした。
実際に見た十王様は確かに怖いというよりどこか優しいというか、仏像に対して失礼な言い方になってしまいますが可愛い顔をしていました(岩手の方は「めんこい」というそうです)。他の十王様を見たことがないので何ともいえませんが、確かに地獄の裁判官というイメージではありませんでした。このあたりについて仏像学に詳しい弘前大学名誉教授の須藤弘敏氏によると、東北地方の長くつらい冬を耐え忍んできた地元の方が、死後の世界でも同じような責め苦が続くのはたまらない、せめて死後の世界くらいは少しでも手加減してほしいという願いのようなものがあるということです(NHK番組「みちのく いとしいホトケに出会う旅」より)。なるほどなあと思い、黒石寺を後にしました。
さて黒石寺を出たのが15時頃ですが、黒石寺を訪問したのは11月上旬の初冬の頃で、日も短くすでに陰り始めていました。ここからさらに水沢駅まで2時間歩くと真っ暗になってしまいそうです。もっと最寄りの駅はないものかと調べてみたところ、ご参考までに東北新幹線の水沢江差までが7km、東北本線の陸中折井駅までが7.3kmでした。まあご参考までといっても黒石寺まで歩いていく人などいないと思うので何の参考にもならないと思いますが(笑)。
当然、最も近い水沢江刺まで歩くことにしたのですが悲劇が発生します。どうも途中で道を間違えたようです。引き返すのも時間を要するので、結局、最終的に陸中折井駅まで歩くことになりました(泣)。
なお全くの余談ではありますが、ここ奥州市はメジャリーグで活躍中の大谷翔平の生まれ故郷です。大谷の出身高が花巻東なので花巻市出身と思われている方もいらっしゃると思いますが、実は奥州市の前身でもある水沢市の出身です。大谷翔平の出身地ということもあり、町おこしのために、もう少し町中に大谷翔平の応援メッセージなどが張り巡らされているかと思っていましたが、駅構内以外、ほとんど見ることはありませんでした。このあたりは逆に大谷翔平の方からお断りされているのかもしれませんね。
達谷窟毘沙門堂の悪路王
世界遺産にもなった中尊寺の金色堂などがある平泉の中心地から西へ約6kmのところに、達谷窟毘沙門堂があります。元々、この窟には悪路王という鬼が住み着いていて、赤頭・高丸などといった仲間と共に近隣地帯を荒らして周辺の住民は困り果てていました。その話は京の都まで伝わり、朝廷は坂上田村麻呂を派遣して征伐させました。その戦に勝った坂上田村麻呂は、戦勝は仏の加護であるとして、以前より祈願していた京都の清水寺に模して創建したのがこの達谷窟毘沙門堂堂と言われています。ここに108体の毘沙門天を祀りました。
ただここに出てくる悪路王については、「実際には存在しない伝説上の存在である」、「坂上田村麻呂によって征伐された蝦夷の王アテルイである」等、その他いろいろな説があるようですが、鬼の持つ二面性のうち、「鬼=悪」の例であることは間違いないようです。
なお毘沙門堂の西側の岸壁には、磨崖仏(まがいぶつ)として刻まれた岩面大佛があります。ちなみに磨崖仏とは自然の岸壁などに対して彫られた仏などのことで、日本中のいろいろなところで見ることができます。ここ達谷窟の磨崖仏は最北の磨崖仏のようです。
近隣には達谷窟の他にも悪路王の伝承地が多く残されています。その代表的なものが近くを流れる太田川にある「姫待滝」です。悪路王は京からさらってきた姫らを上流で幽閉していたのですが、隙を見て逃げ出す姫をこの滝で待ち伏せして捕らえたと伝えられています。
またその下流にはさらなる悲劇の地、「鬘石(かつらいし)」と呼ばれる巨石があります。逃げ出して再び捕らえられた姫は、見せしめのためでしょうか、その長い髪を切られ(または首を切られたとも言われています)、その髪が(または首が)川を流れてこの石で堰き止められたいうものです。
なおこの毘沙門天にも路線バスが通じていません。実は以前に近くにある厳美渓に行くために路線バスに乗った際、通過した記憶があるので平泉駅前の観光協会で聞いてみました。やはり今は運行していないようでした。仕方ありません。平泉の駅から約6kmの道のりを徒歩で向かいました。約1時間20分の道のりでした。なおご参考までに駅前にはレンタサイクルがあります。それを借りようか迷いましたが、「東北を歩く」としてはこれまで自転車を使ったことがないので今回も使いませんでした。ただ往復12km歩いたので、少し疲れました。意地をはらずレンタサイクルを使えばよかったと若干の後悔が残りました。