【番外編】アウシュビッツ平和博物館~なぜここに?~(2024年9月訪問) 

<カテゴリ:文化・遺産>


アウシュビッツ平和博物館
アウシュビッツ平和博物館(2024年撮影)

 ネットで検索していたら福島県白河市に「アウシュビッツ平和博物館」という博物館がヒットしました。最初、「えっ!なぜここに?」というのが正直な思いでした。後程ご説明しますが、これまで栃木県に設置されていた当博物館が、地主の方の倒産という理由のため代替となる場所を探していて、この地に移転してきたということです。

 本ブログでご紹介するお勧めスポットは、東北地方の自然や古来から伝わる伝説、遺跡などをご紹介するようにしており、この地にたまたま移転してきた「アウシュビッツ平和博物館」をご紹介するのがいいのか少し迷いましたが、ここで見た内容はあまりにも衝撃であったため、是非、【福島を歩く番外編】としてご紹介させて頂きたいと思います。

 

アウシュビッツ平和博物舘
アウシュビッツ平和博物館

アウシュビッツ収容所について

 

 まず本博物館の背景となるアウシュビッツについて少し振り返ってみたいと思います。

 ご存知の通り第1次世界大戦(1914-1918年)で敗れたドイツは、ベルサイユ条約により巨額の賠償金の支払いを命じられ、国内の経済は疲弊しきっていました。加えて1929年の世界恐慌によりドイツ経済は大打撃を受けることになり、国民の不満は頂点に達していました。その時に台頭してきたのがアドルフヒトラーです。ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ)は事実とは無関係に「ユダヤ人こそ我々の敵だ、不幸の原因だ」と叫び、国民の憎しみをあおり共感を得て勢力を拡大していったのです。こうしてナチスドイツおよび占領下のヨーロッパにおいて、ただ「ユダヤ人」という理由だけで600万人もの人々が虐殺されました。そのうちなんと1/4の150万人が15歳以下の子供たちであったと言われています。アウシュビッツはナチスドイツがポーランドに建設した最大の強制収容所です。ここで約150万人もの命が失われたと言われています。

アウシュビッツ平和博物館
アウシュビッツ平和博物館

 こういった一連の経緯などが本博物館の映画により改めて知ることができます。特に私が衝撃を受けて、正直、気分が悪くなったシーンがありました。それは収容所では労働力として「利用できるもの」と「利用できないもの」に選別され、多くの子供達は「労働力として利用できないもの」として、ガス室に送りこまれたということです。そういった話は聞いたことがあるものの、記録映像として改めて見ると衝撃すぎました。

 なおこのアウシュビッツ強制収容所は、ユネスコ世界遺産に登録され、ポーランド政府が国立博物館として管理しています。そして今回、訪問した福島県白河市にあるアウシュビッツ平和博物館は、ポーランドの国立博物館から提供された関連資料などを常設展示する日本で唯一の博物舘のようです(アウシュビッツ平和博物館の紹介資料より)。現在は特定非営利活動法人アウシュビッツ平和博物館が運営・管理しています。

 

アウシュビッツ博物館(企画展示室)
アウシュビッツ博物館(企画展示室)

なぜこの地に?(博物館開設まで)※博物館の紹介資料より

 

 ではなぜこの地にアウシュビッツに関する博物館があるのでしょうか。博物館の資料に記述されていました。

 当初、戦争の史実を伝えるためにポーランドの国立博物館で展示されていた内容を展示する巡回展示が1988年~1998にかけて日本全国で開催されたようです。その過程でポーランドから日本での常設展示館の要望が出されたようです。その時、栃木県の塩谷町に建物を貸してくれる方がいらっしゃって2000年に「アウシュビッツミュージアム」として開設されました。ところがその2年後に地主さんが倒産してしまい、代わりとなる地を探していくなかで、初代の館長である故青木進々氏の思いに共鳴された白河市の藤田氏から所有する土地が提供されたとのことです。こうしてこの福島県白河の地に2003年「アウシュビッツ平和博物館」が開設されました。ただ博物館を建設するには資金が足りず、茨城県の玉里村から古民家を移築して再利用することになったようです。訪れたアウシュビッツ博物館は、確かによくあるようなコンクリート作りで出来た博物館ではなく、どこか昔ながらの民家を訪れたような懐かしい感覚でした。

 

白坂駅
白坂駅

アウシュビッツ平和博物館を訪れる

 

 アウシュビッツに関する史実を確かめるために、2024年9月末の日曜日に訪問しました。旅の起点は東北本線の白坂駅です。この駅は東北本線の福島県における最南端の駅となります。お隣の豊原駅は栃木県です。少し余談になりますが福島県の白河市を訪れるといつも思うのは、「○○の優勝旗はついに白河の関を越えた」という言葉に代表されるように白河の関は東北の玄関のようになっているようですが、このあたりは白河の関より南に位置しており、もしこの周辺の高校が甲子園で優勝していたとしたら、それでもやはり「優勝旗はついに白河の関を越えた」と言っていたのかな?と屁理屈を考えてしまいます。もちろん2022年の夏に仙台育英高校が夏の甲子園で優勝したので、そのような心配はなくなりましたが(笑)(関連記事「白河の関」)

白坂駅からの途中にある標識
白坂駅からの途中にある標識

 さてアウシュビッツ平和博物館は白坂駅から徒歩5分程度のところにありました。博物館は大きく4つの建物で構成されており、主にメインとなる第1展示棟では、常設展示としてポーランド国立博物館から提供されたアウシュビッツ収容所の記録写真や犠牲者の遺品、ナチスに連行されて没収された所持品、写真など200点あまりが展示されていました。ちなみに収容所に連行される際、鞄、靴など金品に関わるものはすべて没収されたようです(なんとむごい!)

 ビデオ室では当時の映像を見ることができます。舘内に入ると最初に見せて頂きました。映像を見た時の印象は冒頭に記述したとおりです。また当時、ナチスドイツに追われた多くのユダヤ人に独断でビザを発給して、命を救った外交官・杉原千畝氏等の展示もありました。全くの偶然ではありますが、丁度、私が博物館を訪れる前日(2024/9/28)にNHKスペシャルで特集をしていたので、よく理解することができました。

 

アウシュビッツ博物館(アンネフランクギャラリ)
アウシュビッツ博物館(アンネフランクギャラリ)

 第2展示室(アンネフランクギャラリ)ではアンネフランク財団から提供されたアンネフランクの写真などが常設展示されています。ご存知の通り、アンネフランクはユダヤ系ドイツ人の少女で、「アンネの日記」の著書として知られています。ナチスの迫害から逃れるためオランダに亡命しましたが、ナチス親衛隊により隠れ家が発見され収容所へ移送されました。収容所での劣悪な環境により病気を発症してわずか15歳で命を落としましたが、隠れ家から発見された日記は「アンネの日記」として世界的ベストセラーとなりました。アンネの日記の日本語初版本や関連する写真、記事が70点ほど展示されています。聞いたところによると、所有権はこのアウシュビッツ平和博物館にあるようです。 

アウシュビッツ平和博物館(貨車を使った第3展示室)
アウシュビッツ平和博物館(貨車を使った第3展示室)

  第3展示室は屋外にある貨車を使用した展示室となっており、「子供の目に映った戦争」というテーマで、ボーランドの子供たちが第二次世界大戦終了直後に描いた絵などが展示されていました。ちなみにこの貨車は収容所に連行される際に使用された貨車を模しているようです。

 帰り際にはたくさんの栗を頂戴しました。本当にありがとうございました

 

 これまでも本ブログで戦争と平和に関する記事をご紹介させてきました(仙台市にある戦争の爪痕、東松島市にある震洋基地跡 等)。現在(2024年10月時点)でもロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとパレスチナの戦争などが続いており、改めて戦争とは何か、平和のありがたさについて考えさせられる機会となりました。アウシュビッツの悲劇については、写真や映像を見ていると何か遠い昔の出来事のように思えてくるのですが、現代においてまぎれもなくあった史実です。是非、皆さんもこの地に足を運んで頂き、この史実を改めて確かめて頂ければと思います。場所も東北の最南端の地にあり、関東エリアからは容易にアクセスできます。