作成:2025/4/25

蒲生氏郷の足跡をたどる

<カテゴリ:文化遺産、自然>


会津の名城「鶴ヶ城」
①会津の名城「鶴ヶ城」。桜の名所としても知られている。写真は残念ながら二分咲きのころ。

 蒲生氏郷(がもううじさと)をご存知でしょうか。ひょっとして地元の方を除いてあまり知られていないかもしれません。では会津の名城「鶴ヶ城」は多くの方がご存知のことと思います。実はこの鶴ヶ城の礎を築いたのが蒲生氏郷であり、鶴ヶ城の「鶴」の文字は蒲生氏郷の幼名である「鶴千代」から名づけられたと言われています。

 以前より福島県の会津地方、特に会津若松の鶴ヶ城周辺を訪れるたびに蒲生氏郷の名前を目にすることが多く、是非その足跡をたどってみたいと思っていました。今回、会津若松に行く機会がありましたので、訪れた地についてご紹介させて頂きたいと思います。あまり多くの場所を見いだすことができませんでしたが、今後も蒲生氏郷の足跡を発見することがあれば追加していきたいと思います。

鶴ヶ城の至るところで蒲生氏郷の足跡をたどることが出来る
②鶴ヶ城の至るところで蒲生氏郷の名前を見ることが出来る(写真はかつての表門)。

 最初に蒲生氏郷について簡単にご紹介したいと思います。蒲生氏郷は戦国時代の武将で、織田信長、豊臣秀吉などと同じ時期に活躍をしました。織田信長には人質として捕らえられながらも寵愛され、信長の娘を妻として迎え入れています。織田信長死後は豊臣秀吉にも重用され、ここ会津藩42万石を任されるようになりました。その後、黒川城(後の若松城、現在の鶴ヶ城)を整備する等、会津藩の基礎を築いていきました。またキリシタンとしても知られており、さらに千利休の弟子でもあり利休七哲の筆頭にも名前を連ねる茶人でもありました。

鶴ヶ城の至るところで蒲生氏郷の足跡をたどることが出来る
③鶴ヶ城の至るところで蒲生氏郷の足跡をたどることが出来る。写真は自由市の案内

 このように会津藩の礎を築くと同時に、文化人としても知られている蒲生氏郷ですが、実は生まれは近江です。1556年(弘治2年)に六角承禎の重臣蒲生賢秀の三男として生まれました。幼名は鶴千代でした。鶴千代は岐阜の端竜寺の僧である南化玄興に従事して、仏教などを学んだとされています。

 その後、観音寺城の戦いで六角氏が敗れると織田信長は当時13歳の鶴千代(蒲生氏郷)を人質として取ったのですが、織田信長は鶴千代の才能を早くから見抜いており、鶴千代にとって最初の戦でもある大河内城の戦いで初陣を飾ったあとは、自らの次女(冬姫、相応院と言われているが実名は不明とされている)を妻として娶らせたのです。元服の際には織田信長自らが烏帽子親(男子が元服の際、親に代わって烏帽子をかぶらせ、その名を与える人)となったとされています。その後、氏郷は朝倉氏への攻め、姉川の戦い、伊勢長島への攻め、長篠の戦い等で活躍して頭角を現わすようになりました。

鶴ヶ城内にある茶室麟閣
鶴ヶ城内にある茶室麟閣。県の重要文化財(会津若松駅より徒歩25分)

 織田信長が本能寺の変により死去したあとは、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に臣従するようになり、織田信長の死後の主導権を争った権力闘争と言われるケ岳の戦いでは羽柴秀吉側に加担し、その勝利により羽柴秀吉の信頼は揺るぎないものとなりました。その後、長久手の戦い、九州征伐等で勝利をおさめ、これらの一連の功績により、蒲生氏郷は会津42万石を与えられるようになりました。

 ちなみに優れた才能を持つとされていた蒲生氏郷が、京から離れた会津の地を任されることになった背景については、伊達政宗や徳川家康の監視などの諸説があるようですが、最も有力な説は実力者であるがために、蒲生氏郷を京の地から離れたところに置きたかったという見方のようです。そのため天下取りを企んでいた蒲生氏郷は本意ではなかったという記録が残っています。

鶴ヶ城内にある茶室麟閣
鶴ヶ城内にある茶室麟閣

 蒲生氏郷の実力ぶりを表すエピソードあります。秀吉が家臣に対して100万の大軍の采配をさせたい武将は誰かと訊ねた際、家臣は前田利家や徳川家康の名前を挙げたのですが、秀吉はそれらを否定して蒲生氏郷だと言ったそうですただしこのエピソードについては信頼性が高いものではなく、他の説もあるようですが、少なくとも秀吉の中では蒲生氏郷は大きな存在になっていたようです。

 会津藩を任せられた蒲生氏郷は、会津のお城であった黒川城を若松城に改め、さらに幼名にちなみ、鶴ヶ城と名付けました。同時に城下町の商業政策、手工業の奨励など、会津藩の発展の礎を築いていきました。写真③は鶴ヶ城桜祭りの時に開催されていた自由市の案内です。蒲生氏郷が会津の地に導入したという市場にちなんでいるのでしょうか。

鶴ヶ城にある容保桜(かたもりざくら)
鶴ヶ城にある容保桜(かたもりざくら)会津藩主松平容保が京都で発見された新種の桜と言われている(注:蒲生氏郷とは直接関係ありません)

 また能や茶にも深い理解を持ち、特に茶道については、千利休に従事して千利休七哲(千利休の茶の湯の弟子で名を知られた7人の武将)の筆頭にまで数えられるようになりました。 

 千利休が豊臣秀吉により処罰された際、利休の養子である千少庵は蒲生氏郷のもとに逃れて一年半ほど庇護をうけたとされています。氏郷は千少庵に命じて、鶴ヶ城内に茶室「麟閣」を作らせました。その後、少庵は京に戻り、その子孫がいわゆる茶道の3千家(表千家、裏千家、武者小路千家)に分離して、現在に至っています。このような経緯から、蒲生氏郷が現在の茶道の伝統を守ったと評している文献もありました。

キリシタン塚
キリシタン塚(JR七日町駅より徒歩15分)

 また蒲生氏郷は、キリスト教の洗礼を受けることになり。熱心なキリスト教信者となりました。その熱心さと優れた才能のため、キリスト教の伝道師は、時のローマ教皇に対して蒲生氏郷のことを特別な幸運と勇気に傑出した武将であると報告しています。

 ただ1635年に幕府によるキリスト教の厳禁令が発令され、キリスト教徒に対する弾圧が始まりました。ここ会津の地においても外人教徒たちが捕らえられ処刑されたとのことです。会津若松市七日町にあるキリシタン塚は、かつての弾圧による犠牲者の骨が見つかったとされている場所です。その供養のためにキリシタン塚が建てられました。

蒲生氏郷の墓
興徳寺にある蒲生氏郷の墓(会津若松駅より徒歩10分)

 織田信長や豊臣秀吉そして千利休にも重用され、武将として文化人としてすぐれた才能を持ち今日の会津地方の礎を築いた蒲生氏郷は、文禄4年(1595年)に40歳という若さで死去となりました。蒲生氏郷には嗣子がなかったため、最終的には蒲生氏は断絶となりました。蒲生氏郷の墓は会津若松市の興徳寺にあります。写真にある五輪の塔は仏教での五大(地、水、火、風、空)を表しており、故人の霊を浄土に導くものとして使われてきました。境内には歌人としてもすぐれた才能のあったとされる蒲生氏郷の辞世句の歌碑があります。

 

 このように蒲生氏郷は決して生粋の会津の武将ではありませんが、会津地方の発展の礎を築いたことは間違いありいません。是非、皆さんも会津地方に訪れる機会があれば、蒲生氏郷の足跡を訪れてみては如何でしょうか。


<関連情報>

 

①是非、立ち寄りたい周辺のお勧めスポット(もちろん鉄道とバスと徒歩で)

末廣酒造
末廣酒造(七日市駅より徒歩5分)

 末廣クラシックカメラ博物館 お勧め!

 JR七日町駅より徒歩5分のところに末廣酒造があります。ここは江戸時代末期に創業された由緒ある酒屋で、外観を含めて重厚感あふれるたたずまいですが、その一角にクラシックカメラ博物館があります。福島県在住のカメラコレクションをされていた方がその展示を末廣酒造が引き受けという経緯があるようです。ここには国内外問わず古くからのカメラが500点余りが展示されており、カメラファンならずとも楽しめるものと思います。

クラシックカメラ博物館
クラシックカメラ博物館(末廣酒造内)

  恐らく国内にはもっと多くのカメラを展示している博物館があるとは思いますが、少なくとも私はこれほどの数のカメラの展示を見たことはありません。とにかくその数量には圧倒されること間違いなしです。館内には、カメラ収集のために娘さんの学費に用意していたお金を流用したこと、高級ベンツ3台分の投資をした等、コレクタならではの裏話も紹介されています。